2018年2月2日金曜日

説教要旨

                                              牧師:友川 栄
2018年1月28日

「主イエスは招く」

  
   イエス・キリストはガリラヤで人々に「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と宣べ伝えた。ここにイエス・キリストの教えと御業の急所が記されていると受け止めたい。「神の国」とは「神の支配」であり神は今も生きて働いている。だが、神の御力に与るには「悔い改め」が求められる。神は人間の思い通りになるお方ではない。キリスト教の神は人間の思い通りになる「ご利益」の神ではない。「悔い改め」とは「自分を捨てる」こと。自分の願いや祈りが叶うようにから「神の御心がなるように」という祈りに変革されること。否、神によって180度回心させられること。十字架で命まで捨ててくださったイエス・キリストに従い歩み続けることではないか。

  
 更に、イエス・キリストは弟子たちを選ぶ。イエス・キリストは優秀な人々、品行方正な人々、嘘をつかない人々を選んだのか。イエス・キリストの選びはこの世の選考基準と全く違う。12弟子たちの主要メンバーはペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネで、全員漁師だった。当時、漁師は蔑まれる職業とされていた。だが、イエス・キリストは敢えて彼らを選ぶ。ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは人生に悩んでいたのか、経済的に逼迫していたのだろうか。マルコ福音書は弟子たちの心の悩みに一切触れない。イエス・キリストの選びは人間の予想を遥かに超える。


「イエスは彼らに言われた『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った」(1章17、18節)と記す。人間の悩みや艱難や病気などがキリスト教に入信する契機となるが、それ以上に重要なことは、イエス・キリストの「わたしについてきなさい」という招きの言葉ではないか。私は1970年6月中旬に米国のサンフランシスコで洗礼を受けた。友人三人で米国に行き、英語を学ぶという無謀な遊学を決行。伊予谷峰男牧師の書斎を最後まで占領していた日曜日の朝、伊予谷先生が「友川さん、イエスを信じますか?」と真剣な眼差しで問われた。断りきれずに「はい」と返事。すると、「今日礼拝の中で洗礼式を行います」と言われた。義理で「洗礼を受けた」不謹慎な者だが、私が牧師となる契機となったことは間違いない。イエス・キリストは今も「わたしについてきなさい」と招きたもう。

  

0 件のコメント:

コメントを投稿