2018年1月12日金曜日

牧師のひとり言(2018年1月7日)

                                             牧師:友川 栄


「主は罪人を招く」
  
 イエスがマタイを弟子としたのは神の不思議な導きと言えよう。イエスの一方的な選びが取税人マタイをして神の福音を伝える器として選んだ。これは奇跡と言えないか。よく「人生は自分の力で切り開くもの」と言われるが、全てがそうとは限らない。むしろ私たちには分からないことが多くないか。イエスはそのような小さな存在を選び御心に相応しい者へと変える。


   「さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て(本田哲郎氏は「収税所に座っていた一人の人に目をとめた」と的確に訳す)、『わたしに従ってきなさい』と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った」(9章9節)とある。マタイが悩んでいたわけでもない。ローマの手先となって貪欲にお金を稼いでいたことに罪悪感を覚えていたわけでもない。そうではなくマタイが取税人として働いていた所(謂わば、マタイの日常生活)にイエスは目をとめる。イエスは人間の日常生活にも目を注ぎ、人間の偏った差別や拘りや傲慢を粉砕する。


   取税人は当時「罪人」と言われ嫌悪されていた。ローマの手先となり私欲を肥やす輩と考えられていたからだ。イエスが多くの取税人や罪人を招いて食事をしていることを見たパリサイ人は憤る。彼らは「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」(9章11節)とイエスの弟子たちに怒り狂う。それに対するイエスの答えに留意したい。「イエスはこれを聞いて言われた、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である』・・・わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(9章12、13節) イエスは真の医師ではないか。人間に巣食っている能力万能主義の欺瞞を見抜くお方ではないか。罪とは神の御力に信頼せずに、人間の能力に身を委ねること。人間全て罪人と言えないか。だが、主イエスはそのような罪人を見捨てることなく、招き、強め、永遠の生命を約束する。イエスの招きに応えて生きて行きたい。