2018年4月3日火曜日

今日はイースター礼拝(4月1日)

今日は主イエスが死から復活した
イースター礼拝でした!

かわいい「エッグカバー」ですね!
新丸子教会の教会員の手製ですよ。
有難うございました!

礼拝後の親睦会






2018年3月16日金曜日

英語で聖書を読む会


「英語で聖書を読む会」


 英語を話したいがどうも苦手でという方のために「英語で聖書を読む会」を始めるこ
 とにしました。簡単な日常会話から、更に英検2級程度の方々など、どなたでも参加出来る会です。聖書は面白いですよ。毎月1回行う予定。講師はハンヌ宣教師ご夫妻。ハンヌ宣教師は南アフリカ出身ですが、英語のレベルは英検1級を遥かに凌ぐバイリンガルです。奥様はドイツ出身ですが、ドイツ人は二か国語当たり前のレベル。親切にゆっくりと教えてくださいますので、ご心配は無用です。是非、ご参加ください。




と き:3月18日(日)、4月22日(日) 午前9時30~午前10時頃まで
    「英語で聖書を読む会」の後、礼拝に参加することをお勧めします!


ところ:日本キリスト教団 田尻教会
  大崎市田尻沼部字富岡浦1   電話0229(39)0452



講師:Rev.Hanno de Villiers
     Mrs.Anne de Villiers


会費:無料

2018年2月2日金曜日

説教要旨

                     
                         
                    「主イエスに従い、生きよ」   牧師:友川栄
マルコによる福音書8章27~33節

   イエス・キリストがピリポ・カイザリヤで弟子たちと交わした問答はキリスト教信仰の精髄を示していると受け止めたい。イエス・キリストは弟子たちに「あなたがたはわたしをだれとだと言うか」と尋ねた時に、ペテロは「あなたこそキリストです」と見事な信仰告白をする。ローマの支配から解放する「救い主」と考えて自信満々と答えたのではないか。だが、イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、しかもあからさまに、この事を話された」(31、32節)時、事態は一変する。

   ペテロはイエスをわきへ引き寄せていさめ始める。イエス・キリストの御心を承服しかねたのだろう。ペテロは自分の考えをイエスに押し付けようとする。自分の願いが叶うことを最優先したのだ。ここに最大の罪がないか。弟子たちを初めとする人間の思いや祈りを優先する罪だ。それに対するイエス・キリストの叱責に留意したい。「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(33節)「引きさがれ」とは「後ろに退け」が原意に近い。信仰が熱心であればある程、意外と自分の我を通そうとしないか。熱心さが神の御心を軽視することも起こり得る。イエス・キリストはそこに「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」岩盤のような罪を喝破する。

   更に、イエス・キリストはその罪から自由になる救いの道を示す。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」がそれだ。「自分を捨て」をある英訳は「忘れ、無視し、自分のものと認めず、自己や自分の利益を忘れる」と補足する。「十字架を負う」とは試練に耐えるという意味ではない。神や他者のために労することを厭わないという積極的な意味だ。「わたしに従ってきなさい」も「Joining Me as a disciple and siding with My party:弟子としてわたしに加わり、わたしを味方につけなさい」と的確に意訳する。それに「継続して、このわたしに堅く忠実にしながら」と記す。主イエスに忠実に従い、神の御心に適うよう生きていきたい。     

  
  

2018年1月31日水曜日

礼拝後の団らん!

1月28日(日)
今日も寒いですね!
体調管理はしっかりやりましょうね




2018年1月16日火曜日

礼拝後の懇談!

1月14日の礼拝後の懇談
故I兄(106歳)の前夜式(1月5日)
葬儀(1月6日)が田尻教会を会場に行われました!



牧師のひとり言(1月14日)

     「イエスに聞き従え」 友川栄牧師
 
 イエス・キリストの公生涯はバプテスマのヨハネから洗礼を受ける時から始まる。マタイ、ルカ福音書にもイエス・キリストの洗礼の並行記事が記されているが、マルコ福音書は非常に簡潔で短い。だがここにイエス・キリストの「救い主」の全生涯の秘儀が書かれていると受け止めたい。

バプテスマのヨハネは「わたしよりも力あるかたが、あとからおいでになる。・・・わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは。聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」と告げる。力あるイエス・キリストは人々に聖霊をもってバプテスマを授けることが出来た筈である。しかし、マルコ福音書の著者は「イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった」と記す。

罪人である人間と同じように洗礼を受けたのだ。更に、ナタナエルが「ナザレから、なんのよいものが出ようか」(ヨハネ1章46節)とるように、ガリラヤのナザレは辺境の地であった。ここにキリスト教信仰の福音が記されていないか。人間は学齢や業績や家柄を誇りやすい。キリスト者でも「某大教会」「某先生の教会」出身と声高に誇る人々がいるが何とも情けない。また、イエスが洗礼を受けた時、天から聞いた声に留意したい。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(1章11節)。

これは詩編2編7節(王の即位)とイザヤ書42章1節(主の僕)からの引用である。ある聖書学者はイザヤ書(第2イザヤ)の「主の僕」全てを指すと言う。特に、第4の「主の僕」は「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で病を知っていた。・・・しかし彼はわれわれのとがにために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめををうけた、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」と告げる。ここにイエス・キリストの十字架の死が暗示されていないか。罪人のために命まで捨てた「神の愛」が記されていないか。「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(8章34節)と勧めたイエス・キリストに聞き従って行きたい。 

2018年1月12日金曜日

牧師のひとり言(2018年1月7日)

                                             牧師:友川 栄


「主は罪人を招く」
  
 イエスがマタイを弟子としたのは神の不思議な導きと言えよう。イエスの一方的な選びが取税人マタイをして神の福音を伝える器として選んだ。これは奇跡と言えないか。よく「人生は自分の力で切り開くもの」と言われるが、全てがそうとは限らない。むしろ私たちには分からないことが多くないか。イエスはそのような小さな存在を選び御心に相応しい者へと変える。


   「さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て(本田哲郎氏は「収税所に座っていた一人の人に目をとめた」と的確に訳す)、『わたしに従ってきなさい』と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った」(9章9節)とある。マタイが悩んでいたわけでもない。ローマの手先となって貪欲にお金を稼いでいたことに罪悪感を覚えていたわけでもない。そうではなくマタイが取税人として働いていた所(謂わば、マタイの日常生活)にイエスは目をとめる。イエスは人間の日常生活にも目を注ぎ、人間の偏った差別や拘りや傲慢を粉砕する。


   取税人は当時「罪人」と言われ嫌悪されていた。ローマの手先となり私欲を肥やす輩と考えられていたからだ。イエスが多くの取税人や罪人を招いて食事をしていることを見たパリサイ人は憤る。彼らは「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」(9章11節)とイエスの弟子たちに怒り狂う。それに対するイエスの答えに留意したい。「イエスはこれを聞いて言われた、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である』・・・わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(9章12、13節) イエスは真の医師ではないか。人間に巣食っている能力万能主義の欺瞞を見抜くお方ではないか。罪とは神の御力に信頼せずに、人間の能力に身を委ねること。人間全て罪人と言えないか。だが、主イエスはそのような罪人を見捨てることなく、招き、強め、永遠の生命を約束する。イエスの招きに応えて生きて行きたい。

       


2018年1月7日日曜日

元日礼拝!

2018年
明けましておめでとう!
笑顔がいいですね