2012年9月13日木曜日

牧師のひとり言 NO15


                   

                      初老牧師:友川栄

「あの素晴らしい愛を・・・」

「光の子らしく歩みなさい」(エペソ5:8)の聖書のみ言葉は、私がかつて十数回ほど朝の礼拝で奉仕をさせていただいた梅光学院の標語でした。中学校、高等学校が教会から徒歩で数分でしたから、生徒たちの歌う讃美歌が聞こえる・・・。その賛美にどんなに慰められたか知れません。関門海峡を往来する船の汽笛の音(ぼ~!私の頭も時折「ぼ~!」としますが?いつも「ぼ~!」では?
などと言われるとへこみますなぁ?)とともに忘れられない思い出です。

エフェソの信徒への手紙は伝統的にはパウロが書いたとされていますが、今はパウロの弟子がパウロの名を借りて書いたとされています。著者は不明ですが、私はパウロが書いたという説も捨てがたいと思っています。エペソはパウロが伝道したところです。福音の種を蒔き、それを信じる人が起こされる。しかし、この手紙を読むと分かりますがクリスチャン全てが模範的な人々ではなかったらしい。誤解やすれ違いや、対立があったようです。

クリスチャンになれば、欠点も弱さも一切なくなる「天使」になる訳ではありません。常に「途上」にあるのですよ。ちゃらんぽらんではいけませんが、失敗をしたり、図に乗ることも・・・。そのような者でも、イエス・キリストに支えられながら健やかに成長するもの。エフェソ書を読むと分かるのですが、神がまず私たちを選び、愛されたことを強調しています。神の絶大な恩寵です。先行する神の恵み。

「光の子らしく歩みなさい」とはどういう生き方なのでしょうか。次に続く「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(エフェソ5:10)「だから、・・・主の御心が何であるかを悟りなさい」(エフェソ5:17)がヒントになるでしょう。つまり神が喜ばれることをなすことです。主の御旨をなすこと・・・。神の御心を問い、それを求めて生きていくことですよ。自分の願いや祈りではりません。試練に遭えば必死に祈りますが、願が叶えられるとは限りません。

将に人生は平坦な道ではありません。山あり谷ありの道程です。「今は主にあって光となっている」に注意をすべきです。「in the Lord」です。新共同訳では「主に結ばれて」と訳していますが、何かが足りないと思っています。「主に囲まれて」とでも訳すべきでしょうか。光の源は私たちにはないということです。イエス・キリストが光なのです。その光を受けて生かされている。光を反射している。キリストの愛にしっかりと護られながら・・・。

よく自分には「信仰がない」と思い落胆する人がいます。他者のために喜んで奉仕をしている人などを見て「立派」とか「素晴らしい」などと羨む人もいます。16世紀に宗教改革を行ったM・ルターは「他人と比べることが罪である」という趣旨のことを書いています。どこかで私たちは他者と比較をして一喜一憂しがちですが、神から固有の賜物をいただいているのです。口下手でも良い。聴く能力が優れているかもしれないのですから・・・。弱い者でも、神は「光の子」としてくださる。命を捨ててまで愛とは何かを教えてくださった。神は「あの素晴らしい愛を・・・」限りなく与えてくれる?!。



アクセスいただき有難うございます。少し忙しくて「さぼり」ましたが、次週に、また、また、また、また、また、また「また逢う日までを」を楽しみにしていますので・・・。
 




























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