2012年8月30日木曜日

牧師のひとり言 NO14


                      初老牧師:友川栄

「七転び八起き!」

 イエス・キリストに出会い人生が根底から変えられた人物が聖書に多く記されています。姦通の現場で捕えられ、イエスの面前に引き出された一人の婦人も(ヨハネ8章1節以下)その一人でしょう。パリサイ派(律法を生真面目に守るユダヤ教徒:分かりやすくいえば、何事も規則や秩序を最優先にする人たちですよ。こういう人いますよね?

規則だ、規則だと言い張る人が・・・)の人々がイエス・キリストを試すためです。イエス・キリストの矛盾を衝き、殺そうと図る。

 姦淫を犯すことは十戒の七戒「あなたは姦淫してはならない」(出エジプト20:14)を破ることです。ユダヤ人にとって十戒は厳守すべき掟。十戒を破ることは神を冒涜するものと考えられていた。姦淫を犯した女性は公衆の面前で石打ちの刑に処せられたのです。しかし、イエス・キリストは「神の愛」と「隣人愛」を説き、実践してきました。

破ってはならない安息日を「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)と説き、教条主義に陥りやすい誤りを正してきたのです。律法学者やパリサイ派の人々は、そのような言動をするイエス・キリストを赦せなかった。そこに姦淫の現場で捕えられた婦人がつれられてくる。イエスが人々に教えておられた時と書いてあります。イエスをやり込める千載一遇のチャンスです。婦人の罪を認めれば、「神の愛」や「隣人愛」を問いただしたでしでしょう。いい加減に見過ごせば十戒を破る輩として訴えることも可能になります。

イエス・キリストはどう対応したのでしょうか。「身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。」(ヨハネ8:6)とあります。私はここにイエス・キリストの深い愛を読み取りたい。姦淫で捕えられてきた婦人の錯綜した心情です。姦淫は男性がいないと成立しませんが、男性は捕えられていません。婦人がなぜ姦淫したのかも沈黙しています。唯、イエスは地面に何かを書いていた、とあるだけです。イエスが言葉に窮したのではない・・・。

イエス・キリストの次の言葉は意表をつくものです。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(ヨハネ8:7)。その後に「これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き」と記してあります。イエスの鋭い人間理解がここに読み取れないでしょうか。若者がいの一番にそこを去ったのではありません。高齢者から去る。言葉を換えれば、年を重ねるとは罪を深く知るということでしょう。年を重ねると間違いを犯し、醜悪さを見聞きするもの。私も還暦を過ぎましたので、よく分かりますね。止めようと思いながら、止められない誘惑。性懲りもなく間違いを繰り返し罪責感で落ち込む人などなど。

婦人に対してイエス・キリストは、一人残された婦人に「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と語っています。罪を見逃したのではありません。この後、イエスは十字架に架かります。人々の罪を背負い赦すために、自分の命を捨て、血潮を流す。そのイエスが「もう罪を犯さにように」と勧めている。婦人はこのイエスの言葉に縋り付くように生きていったのではないでしょうか。イエスの「もう罪を犯さないように」との言葉に自戒とし、勇気をいただきながら・・・。大きな心の傷を背負いながらも、イエスに赦されて生きていったのでは。「それでも大丈夫」と背中を押されながら・・・。人生「七転び八起き」。

またアクセスいただき有難うございます。次週もまた、また、また、また、「また逢う日まで」を楽しみにしています。







 
 
 
 
 



 









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